ソメリエの忠犬が山の工房よりご挨拶させていただきます。
おとなしくしていたかと思ったら、やってくれてました。
染場から戻ると何となーく変な態度。 (蛇足過ぎますが染場ソメバの読みは「戦場」と絡まって気分的にはそんな感じ)
さて初登場のワン公に絡めてのお話は後で。
この夏吉村仁さんの素数ゼミの話をまたまた読みました。
シャレのようですけど、この話題には周期的に関心が来て、色々な角度で読みたくなってしまうのです。何千年も何万年も繰り返された選択の末に生まれた、最適な「解」という物語。
人間とても例外ではなく、途方もない試行錯誤の選択の果てでしか「解」には至らないのでしょうか。
というのは(具体的な数字は出しませんが)総人口に対する、戦争での死者も、殺人犯罪も、病死者も実は歴史とともに減ってきているというのです。
乳児死亡率にしても、拷問による死者のような残酷な刑死も、因襲的な生贄死というようなことも含めて「進歩」と言っていいのか、兎も角人類は殺し合い的なことを避けるようにはなってきているらしいのです。
コロセウムでの命がけの決闘を楽しむ貴族たち、なんていうような残虐な習性を、人間は確かに持ち合わせてはいるものの、あまり残酷な事には関わりたくない、或いはそんな事柄に秘かに快楽を覚える自分を嫌悪する、といったような事でしょうか。
さて2014年は第一次世界大戦から100年だということで、ちっとも日本では話題が盛り上がらないうちに2015年になってしまいましたが、欧米では「戦争」というとこの一回目の大戦を言うようで、歴史上未曾有の死者を出した、哲学思想宗教の世界も覆してしまうような恐ろしい破壊の数年だったと言います。
誰もが予想もしなかった偶然の重なりから巨大な軍事が動き出し、毒ガス、飛行機、戦車に機関銃等々人類の「知恵」の総力を挙げて殺しあったと。
主戦場だったフランス北部には未だに立ち入り禁止になっている一次大戦の戦場跡が広大に残っていると今回初めて知りました。
遺体や不発弾のこともさることながら、弾薬から染み出した砒素などの毒素のことには身震いがしました、100年経ってなお・・・。
ちなみに第一次大戦の死者は3700万人、第二次大戦のそれは8000万人位とのこと。日本に限ると310万人、うち軍人軍属230万人、そのうち餓死病死が6割を超えるとの説もあります。そしておそるべきことに1945年の「敗戦」までの一年間に全死者の半数が集中しているのであると。
つまり、負けが分かっていながら、政治の一形態である「戦争」を、国民の絶滅を賭して引き伸ばしてしまった「くに」が日本という国家らしいのです。
「一撃講和」という、アメリカに一泡吹かせてから多少有利に停戦しようという空論も、終戦を長引かせたとNHKスペシャルでやっていましたね。
特攻隊員始め、現場の人間たちはその空虚さに気づいていた。この愚かな捨て身の虚しさをのちの人々に伝えることでしかこの国の再生はあり得ないのだということが書かれた「日記」には、そんな時代に生まれてしまった方々の無念が表れてしまっています。戦争を遂行するのは自らが戦地に立たない、そして戦争を経験したことのないエリートの参謀たちの机上の論理なのです。
ドイツでも似たようなことがあり、「帝国」の野望潰えたヒトラーによる自軍の絶滅に等しい無謀な作戦命令が末期には散見されます。因みにドイツの犠牲者は800万人位。そしてその最大の標的であったソビエトはなんと2800万人位の死者をもって「大祖国戦争」を行ったのだそうです。
第二次大戦最大の、想像を絶する数の死者が、この宗教とイデオロギーと人種差別の坩堝の地帯に眠っています。西欧人同士の肉食の殺し合いは東洋人の感覚では理解不能だと思われます。
さて素数ゼミの吉村仁さんです。何か大学のゼミの講義かというかんじですが。
生物は絶滅を避けるように進んで行っている。このことが最大にして究極の目的であるらしい。 先般、全世界で5頭しかいないキタシロサイの一つが30何歳かで死んであと残すところ4頭だけになってしまったというニュースがありましたが、少数だけ残っても次世代に続けば良いというのは違うということを言っておられました。
当然ここから敷衍すべきは、「国体」が残ることに賭けた政治などというものは、選択の余地はないということでしょう。これは何らかの政治的なアピールでもなんでもありません。ありもしない美学の幻惑にそそのかされてしまったのが、列強に遅れてきて来てしまった「帝国」、ドイツ帝国と大日本帝国だったというのが、拙いながらわたくしの現時点での先の大戦の理解です。
蛇足ですが、吉村氏は社会は「破産」しないことが第一番で、破産というのは生物で言う所の「絶滅」であってあってはならないこと。そして少数のものが勝ち組になるような仕組みは生物界では選択の中にないことからしても、アベノミクス的な方策はミステイクだとのことでした。
生き物が存在すると、必ずや軋轢が生じます。
ノ〜天気に言ってしまえば、いかになごやかにほどほどにうまくやっていくかでしょう。
こんなふうにドドドドドドッと世は流れていきます。
転んでしまうと踏みつけられ命を落とすこともあり。
でも寄り道して、うまいことに出会うこともあったりもして・・・・。
度重なる北の挑発に看過できないほどの死者を出しながら韓国は戦闘の道に踏み出しません。踏み出しようもないと言った方がいいのかもしれませんが、ともかく「割に合わない」戦争は選択の余地がないというのが趨勢でしょうが、しかしどう転ぶかわからないのがこの世の習い。
現場の自衛隊員が、実際の挑発に即座に対処できないという現状には、例えば彼が自分の息子であったのならと考えれば、どうにかして欲しいとは思うでしょう。 しかしその前に、現実の挑発相手を「敵」と認識しなくてはいけないという不条理を、困難ではあるものの滅していくことに賭けていかなければと、夢想するのです。
サッカーやらチェスやらなら相手は「敵」と言うでしょうが、東シナ海やら対馬沖でうろちょろしている、中世の時間から来たような相手を「敵」と認識しないようなウルトラCを、それこそ超エリートのキャリアや参謀の方々に考え出して欲しいものだと切に思います。
さる評論家によると、中国はまだまだ己の非力を認識しており、少なくとも25年くらいは国力の増強を待つと言います。そのころ、さらに相対的な力が低下するアメリカとのパワーバランスがどうなるかはわたくしごときが理解できるものではありません。
アメリカはごくごく特殊な宗教と軍事の国だと言います。そして日本やドイツにさらに遅れて来た帝国「中国」そして中華思想はほんとうにどう出ていくかわからないのが、歴史から伺える不気味な姿でしょう。
そのような未来の事態に対処するのに、現今の国家の決議はどちらがモアベターかはわたしにはわかりません。
ただし、です。
日本の国の、まさにわれわれ、わたしには、物事をはっきり言えないという良くも悪くも「性癖」が、骨の髄から沁みついています。それが、ほんとうにほんとうに一大事のときでも、付和雷同、声高のものについて行ってしまいます。
前にも書きましたが、司馬遼太郎のこの言葉が脳裏を離れません。
「精神主義・原理主義は無能者の隠れ蓑。」
いわゆる左の人にも右の人にも言えると思います。そして自分の主張を繰り替えしすぎて、自分で自分の嘘っぽさにやられてしまっている病理。
しかししかし、わたしは大きいことは言えません。
60を超えてなお、というよりだからこそかもしれませんが、世の中でこれは多分ちょっと違うだろうなぁ、ということに対して、こうやって無責任にネットなんぞで垂れ流すことはできても、面と向かって年上のひとや、「義理」のあるひとや、ちょっとめんどうだなと思うひとや、このひとは根っこのとこで「ばか」だから当たらず触らずにしておいたほうがいいだろう、ってなひとに対してきちんと言えないと思うのです。
そしてそういうのが積もり積もってきっとこんな「社会」になっていってしまったというのが、被虐的かつ冷静な自己分析と現状認識であります。
子供や若い人に対して何らかの罪咎のようなものがあるとすれば、きっとそんなところです。大上段に構えてしょってるー、なんて言われそうですが、本気です。
さて、また脱線ですが、あの小林よしのりの「卑怯者の島」という「漫画」がでましたが、あまり話題にならなかったようです。船坂弘という人の1966年のパラオのアンガウル島での玉砕戦を描いた「英霊の絶叫」という本を下敷きにして、小林が物語にしたものですが、彼がそれを明記しないのやら、なんだか誤解を受けやすいお人柄なのか、どうも偏見を持たれやすいのが損な点だと思うのですが、まっさらの頭で接してみると、どちらもよくぞこれをものにしたものだと思わずにはいられません。このようなものを小学生の自分の子供に読ませるとしたら躊躇するものの、もし知ってしまったのならそれはそれ。
なにしろわたしは中学2年の時、広島原爆のカラー写真を見てしまって、以後あらゆることが変わって、きっと理系的な人間から文系的なそれへ変わっていくきっかけになったと言えるかもしれないから。
日本人の体質とはとか、日本人が行ってしまった戦争とはとか、人間の死の瀬戸際とか様々なことが喚起される作品ではあります。
やっとワン公に戻りました。
大戦末期、空襲に備えて動物園の猛獣中心に殺処分されたのはわりと知られていますが、犬たちも軍用犬として供出させられていたという話はあまり知られてないようです。単なる伝書鳩でなく、特攻の爆弾犬として。
これはソビエトでかなりやられたようですが、ドイツも対抗して行ったようです。何でもかんでも、何もかも根こそぎ総動員して、破壊的な姿になっていくのが現代の戦争でしょう。そして勝者も敗者もなくその後の国民の生命力を奪い、長期にわたる低迷に例外なく陥っていくというわけです。
ただし、自らの安寧を確保できてしまえば、これほど儲かる仕組みはないでしょうから、そのように画策する人間はいるのでしょう。
今ISSやらボコハラムやらは子供を使ってこの手のことをやらかしているとも言います。地雷の安全を確かめる為に先導させるのだとか。
一体、わたくしはわたしの忠犬を、お国の為と差し出すでしょうか。(絶対の効果があるのならともかく、「決定」という空気に突き動かされるだけの行動の為に)
拒否したら、村や町中からやいのやいの言われ、35年も地道にやってきた染の世界からも疎まれたり、取引を断られたり。子供も学校で辛い目に遭わされたり。
さてさて、バッケンレコードになるくらいの長々文になってしまいましたが、
この先、もうちょっと毅然として、言うことは言えるようになれたらいいなとは思います。それがお国のためでもあるし・・・。
なんとも情けない大人ですが、仕方ありません。これが日本人のわたしです。
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