2009年8月29日土曜日

凡庸ということ





この夏のお山は極端に雷が少なかったです。
恐怖感を味わうことが無いかわり、大気の大掃除の小気味良さもなかったわけでして。
武田の落人部落と言われている桧原村の奥地ですが、
何百年か前の人達も、そして(なんとこの山奥に縄文遺跡もありますから)
一万年以上前の人々もこの壮快な夕景を見ていたかと思うと
くらっとする気持ちになりますよ。

そのころの「人」が抱く不安と、現代を生きるわたしどもが抱くそれとの
一番の違いは何なのでしょうか。

筑摩プリマー新書から出たばかりの「中学生からの哲学超入門」竹田青嗣著というちっともやさしくない本に「世の中には問うても決着のつかないことがある」とか「簡単に誰もが答えが出なくなったこと」とかが書かれていて
、それはやがて「神が死んだ」という哲学的問題に絡まって行きます。
哲学はより難解になり、「心」を扱う宗教にとって最大の敵は(全ての人に情報が行き渡る)「資本主義社会」だともあります。

この本をヒントに先ほどの現代を生きる「不安」のことを思うに、
われわれは「不安」の根本的な解決がないことを直感的に知り、それに耐えなければいけないことを朧げでも自覚している点が大昔と一番違う点じゃないかと思うのです。
それがペンギンの大コロニーと違う「人間」のつらさでしょう。

なのになのに、投票日を明日に控えた巷では、断定的にこれが絶対だとか
あちらは決定的に間違っているとかノー天気に主張しています。
なにかを選択しなければ前に進まないわけですが、
それにしてももそっとマシなシステムはないのかと思ってしまいます。

この先どうなるかわからないものの、大化けするかもしれない舛添要一さんの元の奥さんであったところの片山さつきさんが(主義主張や好き嫌いはともかく)、あんな優秀な人が選挙にあたり土下座をしたり、泣いて握手しまくったりなんて状況は茶番に思えます。
少しでも早く総力をあげて選挙結果をお伝えしなければ、なんてことも茶番です。
全力で取り組むなら、例えばもっと社会の隅々の取材とか地道な課題が山のようにあるかと思います。

この現代社会では誰もが「凡庸」であることから免れ得ず、凡庸の土俵から
降りることは出来ないとも言います。
退屈な日常にしっかり耐えなければならないのです。
そういった強靭な生活者に個々人がなったところに、少しだけこの重苦しい
現状の出口があるように思えます。
ばらまきや小手先の解決や小利口な立ち回りなんてもう何の解決にもならないでしょう。

大げさに言わせてもらえば、
私どものようなちょっと浮世離れしたような「ものつくり」の世界の再生も、社会のどっしりとした落ち着きがやってこない限り無理なのではないかと思っているのです。


そんなことを夢想しつつ、
世阿弥の言う「おもしろきもの」「めずらしきもの」を目指せたらな、なんて大仰にも思うのであります。 




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